2016年、当時2歳だった青山 環(たまき)ちゃんの救う会の募金活動をお手伝いさせていただきました。環ちゃんのお母さんの夏子さんは、僕が20代の頃に働いていた会社の仲間でした。それが活動をお手伝いするきっかけです。
ある日、一緒に働いていた会社の元上司から1本の電話がありました。「夏子さんが困っている。俺らもなんとか力になろう。」そんな内容だったと思います。一つだけ明確に覚えていることは「心臓移植には3億2千万円が必要」と聞いた時に、恥ずかしながら「それは無理だ」と瞬時に思ってしまったことです。
しかし、その日の夜、同じく一緒に働いていた会社の後輩から「過去に何度か数億の募金が集まった例があるみたいですよ」と連絡をもらい、「だったらいける!」とすぐに切り替えられたことも覚えています。その時は「脳は単純だなぁ」と思ったものです。
実際の活動としては街頭募金をお手伝いしました。参加当初は「たまきちゃんを救う会」が行う街頭募金に参加していました。しかし「このペースでは目標達成がいつになるかわからない。拠点を増やした方がいいのでは?」と焦りを感じ始め、別途池袋を拠点に募金活動をさせて欲しいと、救う会に掛け合いました。
救う会に了承をいただいてからは、ほぼ毎週土日は池袋で募金活動を行いました。たまに池袋の活動終了後、上野など他の地域の募金活動に参加するなど、可能な限り活動していました。無事目標金額の達成を迎えるまで、僕が本格的に活動したのは4ヶ月くらい、池袋での活動は3ヶ月くらいだったと思います。
募金のお手伝いをし始めた当初は、ただただ「環ちゃんを救いたい」という一心でした。街中で募金を呼びかけ、ひたすら頭を下げ続けました。しかし、募金活動を続ける中で、当初は考えもしなかったある感情に気づきました。それは募金活動をしている僕らが、逆に励まされている、元気をもらっているという感情です。
募金してくれる方の多くは「頑張ってね」と声をかけてくれましたし、飲み物を差し入れしてくれる方がいたりと、本当に多くの方々に支えていただきました。
また、当初は「募金してくれるのは年配の方が中心かな」と勝手な先入観を持っていましたが、それも良い意味で裏切られました。小学生低学年くらいの子が「お小遣いから募金するね」と言ってくれたり、一見悪そうな外見の青年たちが募金してくれたり、本当に老若男女問わず募金してくれました。
中には涙目で同じような境遇を経験されたことを話してくださる方がいたりと、確実に人との繋がりを肌で感じたことも貴重な経験でした。こうしたことを間近で見て、体験できたことは僕の人生の1ページにしっかりと刻まれました。
もちろん全ての方が立ち止まって募金してくれる訳ではありません。実際にはほとんどの方が目の前を通り過ぎていきますし、中には通り過ぎる際に独り言のように文句を言われている方もいましが、嫌な経験をすることは全くありませんでした。当初は「絡まれたら毅然とした態度で対応しよう」と覚悟していましたが、そんなことは一切なく僕の杞憂に終わりました。
振り返るとたった数ヶ月の出来事でしたが、それでもこの経験は一生忘れることはないと思います。
このような募金活動を通し、人がどう流れているのか、メンバーの立ち位置はどこが良いか、声の掛け方、伝える内容や長さなど、どうすればより足を止めていただけるか、僕たちなりに試行錯誤してベストな答えを探し続けましたが、これはノウハウだということを学びました。場所ごとの特性はあるとは思いますが、これらは貴重なノウハウであり、経験したことを伝えていくことは僕の役割だと思っています。ですので、今後も可能な限り他の救う会の活動に参加していこうと考えています。
もし、気になってはいるけれど、今ひとつ勇気が持てず一歩を踏み出せないという方がいましたら、僕も一緒に参加しますので、ぜひ一歩を踏み出しましょう。行動したことがあなたの人生にとって何かしらプラスに働くと本気で思っています。