私たちについて
2009年に5歳だった息子が特発性拡張型心筋症を発症し、医師から命の炎を灯し続けるためには心臓移植しか道がないと告知され、目の前が真っ暗になりました。内科的治療も限界を迎え、国内初の成人用補助人工心臓を5歳の小さな身体に装着しました。当時は15歳以下の患者は国内で移植手術を受けることができなかったため、渡航移植に一縷の望みを賭けることにしました。
感謝の日々が続いた6年後、役員の高齢化のため、トリオが解散する話を当時渡航移植が成功して帰国した青山さん(理事長)から聞きました。トリオが無くなったら、かつての自分たちと同じ境遇のご家族の未来は暗いままになってしまうかもしれない。なんとか存続してもらいたい。その想いが通じたのか当時の先輩からバトンを託され、微力ながら活動をさせていただいています。
「臓器移植医療」と聞くと、暗くて重いイメージがあると思います。脳死になった方から奪う行為なのではないかと想像する方もいると思います。しかし、実際は「贈りたい人からもらいたい人へ命をつなぐ」尊くて素晴らしい医療です。患者さんとそのご家族の日常が、泣き顔から笑顔へ、土砂降りから晴天へ好転するのです。
私たちの夢は、渡航移植が無くなること。そして、個人的には移植先進国と言われるオーストリアやスペイン、フランスのように「自分に万が一のことがあった場合、生前に臓器提供をしませんと意思表示をしない限り」、自動的に誰かの命を助ける仕組みが我が国にも根付いたらいいなと思っています。ただし単純に模倣するのではなく、日本人の国民性に配慮したシステムを構築し、運用されることが望ましく、そのためには、官民が積極的に移植医療の情報交換を交わし、世間に対して理解を求める行動が必要だと考えます。
2015年に次男が生まれました。生まれた当初は元気だったものの、1歳を前にした2016年の5月に風邪のような症状が治らず、近くの総合病院を受診すると、すぐに東京大学附属病院へと転院となり、そこで「拡張型心筋症」と診断されました。
医師からは、最終的に助かるには心臓移植しか方法はないと言われ、日本臓器移植ネットワークに登録して、まずは日本で移植待機することにしました。ですが、2年以上待っても日本では移植の機会に巡り合うことが出来なかったため、トリオ・ジャパンに相談し、悩みに悩んだ末、2018年に海外渡航移植の決断をしました。
当時、青山さんや横山さんが親身に相談にのって下さり、また知人・友人などの多くの方々の助けもあり、募金活動を経て渡米、2019年8月にドナーと巡り合うことが出来ました。
2020年2月に無事に日本に帰国後、トリオの活動への参加のお誘いをいただきました。トリオが掲げる大きな目標の前に、微力ではありますが、子供のことでこれまで多くの方々に助けていただいたこと、そこで経験したことや考えたことが少しでも役に立つならという思いで活動に参加させていただいています。
現在の日本では、かつて自分がそうであったように、多くの方々にとって臓器移植というものが遠い出来事になってしまっていると感じています。ですが、誰しもが臓器を提供する側にも、提供を受ける側にもなる可能性があります。トリオの活動を通じて、移植医療が日本でももっと当たり前の医療となることを願っています。
1989年、私の夫は肝臓病と診断されました。予兆もなく、突然のことでした。当時、日本国内の治療法はありませんでしたが、外国に住む友人や家族に肝臓移植のための渡航を強く勧められました。
それまで、渡航移植について聞いたことすらありませんでしたが、色々な方のサポートのおかげで米国に渡ることができ、献身的で素晴らしい医師の先生方、看護師や病院スタッフの皆様、そして、大切ないのちの贈り物(ギフト・オブ・ライフ)をくださったドナーの方により、夫の命は救われました。
また、その時、ほかの患者の方々やその家族との親交に、私たちは心を救われました。分からないことだらけの日々のなかで、経験談を聞かせてくださったり、寄り添ってくださったことで、夫と私は前に進み続けることができました。
帰国後にTRIO(Transplant Recipients International Organization / 移植レシピエント国際協会)の日本支部を知り、メンバーとして加わることができたときには、心から嬉しく思いました。トリオ・ジャパンにかかわる皆さんとの繋がりは、本当にかけがえのないものです!
トリオ・ジャパンは、移植レシピエントや移植待機者、その家族、そして様々なサポーターが、情報や知識、経験だけでなく、生きる喜びも深い悲しみも共有し寄り添い合いながら、さらに多くの人の力になれるよう、日本の移植医療のより広い認知とさらなる発展のための啓発運動を続けています。
トリオ・ジャパンへ、ようこそ!
In 1989, my spouse was suddenly diagnosed with liver disease. Here in Japan, there was no treatment available at that time, but our friends and family in other countries urged him to go overseas for a liver transplant.
We had never heard of such a thing, but thanks to amazing support, we went to the U.S., and his life was saved by brilliant and dedicated doctors, nurses and hospital staff, and the gift of life from an organ donor. We also learned how precious the companionship of other patients and families could be. They helped us find our way through the many unknowns we were facing, by sharing their own stories and standing by us.
That’s why we were glad to join the Japan chapter of Transplant Recipients International Organization. How grateful we have been to know the other members! TRIO Japan is transplant recipients, candidates, family members, and supporters standing side by side, to share joys and sorrows, information, and experience, and to help others by advocating for transplant medicine and its acceptance and development in Japan. Welcome to TRIO Japan!
長引く風邪だなぁ…と心配していた息子が病に倒れましたのは、2008年2月中学1年生の終わりの頃でした。「特発性拡張型心筋症」当初の3ヶ月間の内科的治療を経て、外科的治療のため東大病院に転院しました。当時はまだ改正臓器移植法施行前でしたので転院するということは、13歳の息子が生きていくためには海外渡航移植しか選択肢はないということを意味しました。
トリオ・ジャパンとの接点は、転院後から始まりました。何をどうしたらいいのか全く分からず、苦しむ息子をただ見つめ不安になっていくだけの毎日でした。そんな中、トリオ・ジャパン前事務局長の荒波さんやメンバーの方々が、優しく細やかに寄り添って頂き、前に進む希望と勇気を与えてくれました。どんな相談にも、いつも的確なアドバイスを頂いたおかげで、今があると思っています。
実は臓器移植について、ちゃんと全体的、俯瞰的に見たり学んだりしたのは移植後かなり経ってからのことでした。発症後の当時は目の前のことだけに…病状、救う会、募金活動、そして仕事に追われる日々でした。
臓器移植の課題としてドナー数が少ない、対応できる病院が少ない。その解決策として臓器移植の普及・啓発活動、医療機関の対応体制整備、と言われています。
私見ですが、国内臓器移植を普及、拡大するためには個々人の「こころ」の問題が一番大きく、それがベースにあるのでは、と強く感じております…脳死という死生観、育ってきた社会環境、文化、慣習、宗教観etc
青山理事長、横山副理事長となり、大きなミッションを担う新しいこれからのトリオ・ジャパンは、新しい時代に合わせたやり方、対応について模索、創意工夫されています。今までお世話になるばかりの移植患者の父親というだけの私ですが、少しでもお役に立てればと思っています。
私は、米国のアポロ11号が人類初の月面着陸に成功した1969年の秋に横浜で誕生しました。
生後二ヶ月目ぐらいの時、肝臓病のひとつである胆道閉鎖症と診断され、すぐに葛西式手術を受けることとなりました。術後から数年は安定した生活が出来ていたものの、第二次成長期を迎えた頃から、様々な合併症に悩まされる毎日で、入退院を繰り返していました。
当時、移植医療は雲をつかむような話で、まだまだ現実的な治療方法ではなく、如何に自分自身の臓器と上手く付き合いながら、一日一日を積み重ねて生きてゆく、と云う感じでした。
そして20代の半ばを過ぎる頃、成人の生体肝移植を受けられるチャンスがあり、京都大学医学部附属病院にて、生体部分肝移植を受ける事ができました。
トリオ・ジャパンとの関わりは、移植後の1997年に始まります。今は亡き若林正くんと、病院内の患者会で出会う機会があり、そこからトリオのことを知り、微力ながらも運営に関わらさせて頂きました。
臓器移植法の成立から今日まで、社会の中での臓器移植への認識は変化してきました。そして何より、移植医療は、お互いの思いやりの上に成り立つ医療でなければなりません。移植医療が、より身近な医療となり、信頼関係を作りながら前に進めるようになれば良いと思っています。
ただいま準備中です。